2014‎年‎6‎月‎22日
                愛知県常滑市 尾張・大野城跡
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この公園は、狭そうで、なかなか、広い!
城(展望台)まで、登りです!・・・へろへろ!
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誰もあそんでいません・・・遊ぼうょ!常滑市民!
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やっと!到着・・・ここまで、10分!疲れた~ぁ!
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石碑!有って良かった~ぁ!
ないと、がっかりな、おっさんです!
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はい!本丸?展望台、到着!
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1Fは、こんな感じ!
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展望台3F?
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展望台より、景色を望む!
一番奥が、中部国際空港セントレアです!
手前は、常滑市の、住宅地
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はるか向こう・・・工場の、火事でした・・・まじ!
多分、東海市!?
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半田市方面・・・その向こうが、おっさんの、住んでいる、三河!
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手前が常滑市?海が、伊勢湾に、なります!
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史跡指定:市指定史跡
  別名:宮山城
  形態:丘城(49m/35m)
  歴史  
築城年代は定かではない。大野氏や一色氏が居城としたと云われ、
後に近江国より佐治宗貞が移ったという。佐治信方(為興)は織田信長の
妹お犬を娶って織田信長に従うが、伊勢長島の合戦で討死する。
その子一成は小牧・長久手合戦で徳川家康に味方したため、羽柴秀吉に
所領を没収され伊勢の織田信包を頼って落ちたという。
その後は、織田長益の所領となったが、長益は大草城を築いて
居城としたので大野城は廃城となった。
 
  説明  
公園となって模擬櫓と門が建てられていた。堀が残っているらしい。
 
 城主:大野氏,一色氏,佐治氏
 
 所在地:愛知県常滑市金山字桜谷
 
ここから先は、おっさんの気になるお江さんについてです!

崇源院・・・多分この人です!
崇源院(すうげんいん、天正元年 - 寛永3年9月15日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。一般には(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。
位階は従一位。
浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。
いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、
次姉・常高院は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。
最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。
2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子が生まれたが死別。
3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。
「崇源院」は諡号である。幼名は「督」で、『太閤素性記』では「小督御料人」と記しており、「小(お)」は「御料人」と対になる敬称であることから、読みは「おごう」であると考えられているが、宮中の上級女房名として「こごう」と読める可能性も考えられている。また、『柳営婦女伝系』などでは「督」と音が通じる「江」(読みは同じく「ごう」)と
して記されており、これは生地の近江もしくは江戸に因んで宛てられたものと考えられており、徳川秀忠に嫁ぐ際に「江」に改名された可能性も考えられている。
近世期の女性は、在所に由来する号や位階を得る際などに諱を用いている。
江は将軍御台所時代に「江与」と呼ばれている他、江戸城北側の邸宅を表す
「北方」、将軍家世嗣正室を意味する「御新造」、将軍正室を意味する「御台所」、
大御所正室の「大御台所」と記した資料が見られる。
近世期女性の諱は、幼名に「子」を付けるケースが多い。江も諱として「江子」(読みは「ごうし」もしくは「えこ」「きみこ」か)を用いているほか、没後に従一位を追贈された際には「達子」(さとこ/みちこ)が用いられている。
 
生い立ちから佐治一成との婚姻
浅井長政の三女として近江国小谷(現・滋賀県長浜市)に生まれる。
母は尾張国の織田信秀の娘・市。生年については享年54、天正12年に12歳で
あったとする説から逆算した天正元年が定説とされている。
乳母には民部卿局がつけられた。
天正元年9月1日、浅井長政が市の兄である織田信長と対立し、小谷城が攻め
落とされ、長政らは自害し浅井氏は滅亡する。江は母の市や姉の茶々、初とともに藤掛永勝らによって救出され、信長の保護の下岐阜城に留まり、伊勢上野城主で
信長の弟の織田信包に預けられたという。
天正10年6月2日、本能寺の変において信長は、家臣の明智光秀による謀反で
横死する。
6月27日、織田家の後継者を決める清洲会議により、母の市は織田家臣の
柴田勝家と再婚して、勝家の居城である越前国北ノ庄城へ移り、三姉妹も越前へ
移る。勝家は羽柴秀吉と敵対し、天正11年には賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、
市は勝家共々自害する。江ら三姉妹は北ノ庄を脱出して秀吉により保護されたと
される。
この頃、江は秀吉の意向により、尾張国知多郡大野領主で信長の次男・織田信雄の家臣であり、従兄にあたる佐治一成のもとへ嫁いだという。 佐治氏は、一成の父・佐治信方が信長の妹を室とした織田一族で、秀吉は清洲会議後に尾張を領有した信雄の懐柔を意図していたという。 江と一成の婚姻時期・事情については記録が
見られないが、天正12年に秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と
戦い、信雄方の一成は戦後に大野を追放され、江とも離縁したといわれる経緯から、同年初めに想定されている。小牧・長久手における一成の動向などは『柳営婦女伝系』『以貴小伝』『玉輿記』などに記され、一成は家康に渡船を提供した佐屋の渡一件により秀吉の怒りを買い、追放されたという。また、一成は信雄家臣で秀吉に内通した星崎城主・岡田重孝に加担して信雄に追放されたとする説もある。
 文書上においては小牧・長久手以降にも一成の名は見られるものの、天正13年作と推定される『織田信雄分限帳』においては一成の名が見られず、小牧・長久手後の論功行賞において一成は大野を追放されたと考えられている。
一方で、近世の鳥取池田家に伝来する佐治氏の由緒書には、婚姻を信長存命時の天正2年としている。同年には一成の父・信方が戦死し、信方戦死後にお犬の方は織田家に戻って他家へ再嫁していることから、江と一成の婚姻は信長の意向により織田家と佐治氏の関係を修復する意図であった可能性も考えられており、
また婚約のみで実際に嫁いでなかったとする説もある。